スタッフブログ

スタッフ日記

全ての命が尊ばれる世界

今年のお盆休み

私も旅行に行かせて頂きました!

予算の関係で、貧乏旅行ですが(笑)

 

 

大好きな沖縄です。

空気からすでに大好きです。

 

沖縄には以前からどうしても行っておきたい場所がありました。

それが、旧海軍壕です。

 

第二次世界大戦の時に、

海軍の人達がつるはしで掘った地下基地です。

戦争の記憶は絶対に風化させてはいけないと思います。

 

 

 

旧海軍壕は、沖縄本島の南部にあります。

レンタカーのナビに登録したのですが、わかりにくい場所にあり迷いました。

小高い丘の上にありました。

多分、敵がどこから来るか見えるように丘の上だったんでしょうね。

敵が来るのが見えると、怖かったでしょうね。

 

まずは慰霊碑にお参りし、今ある平和に対する感謝の気持ちをお伝えしました。

 

海軍の遺留品が展示されています。

入口付近には写真もたくさん展示されていました。

 

目を背けたくなるような写真もありましたが、

特に印象に残った写真がこちら

日本人の少女に食事を与えている米兵の写真です。

この写真の米兵の優しそうな顔が印象的でした。

「本当は誰も戦争なんて望んでいないのに・・・」と思いました。

 

こちらの施設ではたくさんの折り鶴を目にしました。

 

全ての命が尊ばれる世界になりますように

 

私も心からそう思います。

 

入口がはっきりわからないまま、壕の中に入ってきました。

こちらは幕僚が自決した手榴弾の跡だそうです。

 

大変な覚悟だったんだろうと思います。

 

でも手榴弾で自決できたのは身分の高い兵隊さんで、多くの兵隊さんは、手榴弾による自決すらできなかったんだろうなと思います。

中は広く迷路状になっていて、道に迷うくらいです。

こんな広いところをどうやってつるはしで掘ったんだろうと思います。

つるはしの跡も生々しくありました。

触ったらザラザラして石灰石?のような感触でした。

だから掘りやすかったのかもしれませんが、崩れやすくもありますよね。

このような施設は未来永劫保存してもらいたいですね。

こちらは下級兵士達がぎゅうぎゅう詰めの中、立ったままで休息をとった場所だそうです。

 

この出口もたまらなかったのですが、

終戦近い頃、武器という武器もなく、外には敵がいることをわかっていて殺されるのを覚悟でこの出口から出撃していったそうです。

十代の若い兵士もたくさんいたそうです。

本当にたまりません。

平成29年の今、私に見えているあの外の光は、当時の若い兵士の目にはどう映ったのでしょうか。

十代なんて、ほとんど子どもじゃないですか。

彼らが正気を保つことができたのでしょうか。

 

こちらは有名な大田司令官が、最後自決前に海軍本部に打った電報の内容です。

 

一部不明なところはあるようですが、現代文に訳されていました。

 

沖縄県民斯く戦えり(沖縄県民はこのように戦いました)

昭和20年6月6日20時16分発

次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう、取り計らって下さい

沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県はすでに通信する力はなく、三二軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事に頼まれたわけではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍とも防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。

しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子ども、女性のみが相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに身体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

 

しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護師、炊事婦はもとより、砲弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえいます。敵がやってくれば、老人やこどもは殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で娘を軍に預ける親もいます。

 

看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵すでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。

さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠くはなれた住民地区を指定された時、輸送力のない者は夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。

 

これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。

 

沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。

一本の木、一本の草さえ全てが焼けてしまい、食べ物も六月一杯を支えるだけということです。

沖縄県民はこのように戦いました。

県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように

 

 

こちらが、電報の全文です。

今の平和があるのは当たり前のことじゃないんだと思います。

多くの犠牲があったこと、戦争がどのようなものであったか、私たちは知っておく義務があると思います。

そして二度と戦争は繰り返さないように、間違った選択をしないように、

次の世代に間違ったバトンを渡さないようにしないといけません。

 

どうか、全ての命が尊ばれる世界になりますように

この記事をシェアする

その他の記事

一覧に戻る

誰かの“笑顔を支える”
仕事をしませんか?

愛101では介護スタッフを募集しております。
人を思いやる心を持った方、ぜひご応募ください!

採用情報はこちら

お問い合わせ